Roo's Labo

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『紅の豚』を人事的に分析してみる

映画『紅の豚』が好きで、よく観ている。夜作業をする際パソコンのDVDプレイヤーで流しっぱなしにし、BGM代わりに登場人物のセリフに耳を傾けるといったことをよくするくらいに好きだ。

複数回鑑賞するうちに、『紅の豚』には明確な対立構造があることが分かった。

一点目の対立軸は、行動原理が集団的か個人行動を主とするか。これは外形的に見ればわかる。例えば、ポルコは明確に個人行動を取っているし、カーチスも(空賊連合と一時的に協力関係を築くものの)、基本的には腕の覚えのある用心棒・一匹狼として単独行動を好んでいる印象だ。これに対して空賊連合は名の通り徒党を組んでいるので、集団行動に分類したい。空軍で少佐の地位を占めるフェラーリンも、(後で説明する内心はともかく)外形的には空軍という集団の一員として、行動するよう描かれている。

二点目の対立軸として考えられるのが、その人のモチベーションの源泉がどこにあるのかという視点だ。これも、分かりやすいのがカーチス。自分の愛機を「富と名声を運んでくる」と形容したり、「空賊の用心棒なんて富と名声を得るためのほんのワンステップ」というセリフから伺われるように、彼のモチベーションの源泉は、お金や周囲からの承認・名声という外的な報酬にある。これに対して、ポルコは戦争をする祖国への協力も自らの信念に合わないとして拒み、あくまで「自分の稼ぎでしか」飛ばない。自らが大切にする信念・価値基準のために飛び、戦うのだ。

実は、自らの信念にもとづき行動する点は軍隊に属する戦友・フェラーリンにも共通している。彼は、「冒険飛行家の時代は終わったんだ。国家とか民族とか、くだらないスポンサーを背負って飛ぶしかないんだよ」というセリフで吐露しているように、(おそらくは生きて生活していくために)国家や民族といった集団に属さざるを得ないが、本当は別のところに己の信念があることを感じさせる。ポルコとフェラーリンはその信念が共通しているからこそ、行動スタイル(個人主義か、集団行動か)が異なっても分かりあい友情を結ぶことができるのだ。

これに対しカーチスは、自らの信念とまったく相いれない世界の住人である。空軍(戦争の勝利という外的な報酬)を目指す空軍に戻ることを拒否するポルコにとって、やはり全く価値観の異なるカーチスとは(飛空艇乗りの技量を認めることはできても)、敵として対決せざるを得ないのだ。

 

ここまで書いてきて、この整理では、ジーナやフィオとポルコの関係をうまく説明できないかもしれないと感じる。最後の場面で、ポルコはジーナに対し、フィオを「堅気の世界に戻すよう」依頼する。これは、賞金稼ぎという集団から離れた「お尋ね者」の世界に将来ある若い人を属させるわけにはいかないというポルコの信念の発露だ。結果として、フィオからポルコに向けられた好意(恋愛的なものよりも、憧れ)を拒否している。そして、おそらくポルコは、ジーナから向けられた愛情についても、ベルニーニへの義理からそれを受け入れるのを拒んでいる。そうまでして自分の信念に忠実に生きるポルコの孤高さが、カッコよさとなって、多くの人を惹きつけるのではないか。

ここまで書いて思うのは、カーチスとの対決(と、飛空艇バトルを超越した殴り合いによる勝利)にははもはや意味はなく、この映画はあらゆる人を拒絶してでも自らの信念を貫くことの難しさ(そうすることは普通の人間には無理で、豚にならざるを得ない)を描いているのかもしれないと思った。「飛ばない豚はただの豚だ」というセリフは、集団から外れて個人行動を取るだけでは意味はなく、自分の信念に従って行動すること(飛ぶこと)が出来て初めて普通ではない意義ある生を歩むことができる(そしてそれには並外れた覚悟と責任が伴う)、とそんな意味合いなのかなと感じたりした。